美学


<表現>の前段階に位置する構築の芸術性とは

文芸・美術・音楽と言った芸術は今尚どの分野においても盛んに批評が成され、表現が成され、
我々の日常生活を取り巻く大きな一要素であります。
多様な論が展開されているものの一般的に「芸術」は表現・表現物の段階までを指し、
イマジナリーフレンドを含めた「構築作業=想像作業」を芸術と呼ぶかは疑わしいところがあります。
「構築作業」ということを大枠で捉えてみると、殆どのケースにおいて、
自分への内向的な表出は成されているものの、外の世界への外向的な表出は成されていません。
(IFを題材に作品制作や他者への表現などを行っている方はもちろん外へ表出をしています)
また、それが自身に向けて表出されているといえども外界から人間の五感を刺激するものとしては働かず、
直接的な作用は専ら脳内の働きに限定して集中していると思われます。
(想像をすると想像で動かした部位と対応する脳の部位の血流が変化するという研究も挙がっていますが
これも内面的な循環として定義して良いでしょう(汗))

IFを構築する方には精神的な困難を抱えた方が多く存在すると言うのは、
このサイトに一通り目を通して頂ければご理解頂けると思うのですが、
後述の「閉塞」的概念を重視する、あるいはコミュニケーションに問題を抱えがちな個人は、
「表現」をする事自体に困難又は抵抗があり、なかなか作品を完成型として送り出せるケースが少ないため、
非常に美的な世界を持っているにも関わらず、表現が芸術として大成されるに至らない事が多いのかもしれません。
「芸術」には自律的なもの(ファインアートの枠組み)と人に伝えることを目的に入れているものがあり、
そのウェイトがどうであれ芸術は芸術として一枠としてここでは考えますが、
広義に構築を「想像を継続的に具現化する程度に高めること」と定義すると、
コンセプトを練り、ときには偶発的なインスピレーションを受け、
それを表現しようと試行錯誤するという芸術の過程は、
ある種構築作業を根幹とする部分があるのではないかと思います。
つまり表現に踏み出す踏み出さないは別にして構築作業は表現のもとになる想像の萌芽であり、
表現のスタートラインの役目を果たすのかもしれません。
構築作業は脳内で行われる表現ですので、外界に表現をすることで新たに現れる障害や縛りを受けません。
評価や批評を受けることもありませんし、表現に物質的な限界が存在しないことを考えると、
私は構築作業は魅力的な芸術性を隠し持った作業だと感じます。
イマジナリーフレンドに限らず人間の精神生活/創作活動の至るところで
構築に似た作業は成されていますが、
我々は表現されたものや形のあるものに関しては着目しやすいのに対して、
表現される前の想像の力についてはなかなか目が行き辛いのではないかと思います。
ですが、「表現の前段階」に着目する意義はそれなりにあると思いますし、
そこに新たな芸術や表現の可能性も含まれているような気がしてなりません。
これが構築について広義で考えたこのページなりの結論ですが、
芸術の定義1つでも様々ありますのであくまでこのサイトの見解としてご理解ください。



構築に必要なものとして一番に躍り出るのは「想像性」ですが、
ここでは高い構築に必要なセンス(定義のページにも書いたものの詳細)の内容について、
心理学的観点を離れた観点で紹介したいと思います。



閉鎖性:準他律的な人格の存在価値を掌握し自己内で完結する
構築作業は、適度に内向的で閉塞的な環境に成り立ち易い傾向があります。
ある程度の心の閉鎖性が無ければ、IF構築に集中する事は出来ませんし、
社会生活上ではなかなか難しい側面ではありますが、
社会的な支配や縛りを抜け出し自身の内部のみでものごとを組み立て触れる精神活動は、
ある種の高揚感を伴った甘美さを構築者に経験させるのでは無いのかと私は考えます。
恣意的で安堵感をもたらす世界はある意味では美しく、自分にとって最上の環境であると思う人もいるでしょう。
構築作業では自分を基盤としたものの割合が圧倒的に多いわけで、
それが他人と織りなす有限な閉塞より更に踏み込んでいるのは、
存在の基盤がすべて自己に存在、帰結し、それを統括し完結するのも自己であるがためです。
恣意的な拒否と遮断が有効で自己のみが存在する世界はそれが良いか悪いかは別にして、
心地好さを与えてくれることには変わりません。
それに没頭し過ぎるのはもちろん良くありませんが、
イマジナリーフレンドを楽しむなら心理的な内向性はある程度は必要だと私は考えます。

言語性:想像に纏わる文学性と叙述の巧妙さ
イマジナリーフレンドと関わるというのは非常に作文に似たところがあります。
というのも、自問自答や対話をし言葉をやり取りするという言葉遊びの要素を持ち合わせているからです。
IFの構築には、「空想傾的な向」つまりファンタジーを好み、想像力があるという素質が必要だとされています。
同じショックやきっかけがあっても、IFを構築する人としない人がいるのはそのためです。

精神の中でロジックやセオリーを形作るためには言葉は必要とされてきます。
視覚的情報の薄いもの、つまりは形の無いものを定義するには言葉での表明が効果的ですから、
言葉や文章を巧みに利用することができれば構築を定着させたり記憶に留める力が増します。
試行錯誤して形作った論理と理論は構築者自身にも一種啓示のような響きで影響を与えますし、
それが他人から見ても良いものであれば、なおさら自分を良い形で律する事にもなりますし、
表現をすれば他人からの評価を得ることにも繋がります。
このような作業を好む方特有の、魅力的な表現や、鋭い切れ味のある表現が出てくるかもしれません。
そういった面で構築は文学的な時間の機会を提供しているのでは無いかと思います。


非肉体性:
IFとは生物なのか、人格なのか、表象なのか、物体なのか。
IFや精神体には肉体がありません。
彼らやその世界は肉体の束縛を離れているということです。
例えば哲学にアナムネーシス(想起)という単語があります。
想起とは、哲学のプラトンの論の用語で人間の魂にとって肉体に定着させられる前に見ていた
真の知識であるイデアを取り戻す過程のことなのですが、
このあたりの非肉体性を話題にした哲学的な論題もIFには関わってくるのではないかと思っています。
※哲学的な研究に関しては曖昧なままで記述をすることは出来ないのでもう少し研究して参ります(苦笑)
少なくとも肉体を介さないやりとりの機会をIFは我々に与えてくれることは解りました。
IFは肉体の境界もさながら、心理的な境界も曖昧です。
遥かに他者より近い距離感を持ちながら、1つの人格として構築者には認知されています。
IFは構築者と同一であるのか、似て非なるものなのか、完全な非であるのか。
自己の断片を人格化する事には何の意味があり、その対象を愛したり交流することは、
禁じられていることなのか、それは何を現すのか。
疑問は尽きませんし、その構図には魅力すら感じさせられます。
前述した通り構築者は構築した人格を恣意的に扱うことが出来ます。
それは現実世界では許されない扱い方であるがゆえに、
他人相手には実現し得ない不思議な関係性を結ぶことに繋がっています。
人間とも物体ともつかない空間に存在するIFは、
肉体を持っていては避けることの出来ない生死に纏わる不安の取り除かれた場所や、 生体の欲求を離れた場所へ、私たちの意識を誘ってくれるようにも思います。

幼児性:ファンタジーを行使する特権的資格

子供であるということはどういうことでしょう。
無知で無垢であることかもしれませんし、愚かであることかもしれません。
好奇心を保っていることや信じる気持ちを忘れないことかもしれません。

子供の世界の見方と、想像の世界で見る世界の感じられ方は似ているような気がします。
それは、どちらの世界も未開であり、当事者はその世界を魅力的で尊大なものだと感じていて、
そこを探求したいという気持ちに満ち溢れているからです。
一度社会に晒され社会の仕組みを理解した人間は必然的に我慢しなければならないことが増えます。
そうするとその探究心も自粛する必要があり、協調が重要視されてきてそれを意識するようになります。
しかし唯一想像の世界では、遠慮しなくてはならない相手はいませんし、
基本的に当事者は保護をされありのままを表現して探究することだけに打ち込めるのです。
ですから想像の世界と言うのは、子供ではないものがまた子供の世界観に戻るための場所でもあるのです。
ですが現実を意識し過ぎてそのような息抜きに抵抗を覚える人も当然いるわけです。

逆に大人なのに、大人になれない人達もいます。
普通の過程を踏んで成長するはずのところに外部からの何らかの障害があると、
精神状態に歪みや偏りをきたしたり、精神発達に歪みが生じ「子供」過ぎるまま大人になることがあります。
最近ではアダルトチルドレン(「おとなこども」ではなく、機能不全の家庭で育ったこどもということで、
精神的に歪みをかかえたまま行き場のない気持ちを背負って生きている大人たちのことを指しています)
と言った言葉も騒がれました。
精神は身体と違い放っておけば成長する訳ではありません。
年齢が上がれば上がる程、社会から庇護を受けることは難しく自立を求められますから、
発達の歪みはさらに度合いを増すことになるでしょう。
現代の社会では至る場所で便宜化がはかられ、
それに伴い全体的に経験不足の傾向が深まりました。
自分の手で確かめ、失敗と成功を繰り返しながら試行錯誤をしなかった事柄は、
身に付いた知識にはなりません。便利なことに申し分はありませんが経験の機会が減っているのは確かです。


「子供」への戻り方、「子供」の保ち方、自分の中の「子供」そして「大人」への向き合い方、
これらが上手に切り替えられる人は、想像の世界も現実の世界も良い形で楽しむことが出来ます。
構築には「子供」という言葉の2つの側面への態度、切り出し方が影響してくることが多々あるでしょう。
それを有用なところだけピックアップして自分に組み込むことは容易ではありません。
年齢にもよりますが、この大人と子供の均衡をどう定めるかもまた構築の大きな特徴になって現れてくるかもしれません。
構築はアンバランスなもので、社会的には認められない突飛な想像や内向性を必要とする事があります。
ときには反骨精神の大きなバネや、厭世的なものの見方など、
良い側面と悪い側面を併せ持つ概念が原動力になる場合もあります。
これは綺麗ごとで飾れるものではなく、構築をするに際して誰もが目にする壁です。
「子供」の側面の切り取り方が、構築の個性に繋がります構築の魅力を引き出す事にもなります。 しかしその場合の社会との均衡の取り方が我々の大きな課題です。


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